平成30年5月 海徳寺 寺報

仏教用語の「我慢」とは

「我慢」という言葉が仏教由来であることをご存知でしょうか?

我が家の場合には、子供がまだ小さく、よくおもちゃ売り場で色々と欲しがる子供に向かって「我慢しなさい」というような形でこの言葉を使っています。一般的な意味で普段使っている「我慢」とは、我が子の例のように、忍耐や辛抱と同義語のような意味ではないでしょうか?

しかしながら、本来の「我慢」とは仏教由来の言葉であり、「我に慢心を抱く」という戒めの意味を含んだ言葉なのです。つまりは、自分に驕り高ぶり、他人を軽んじることであります。

この我慢という言葉は、法華経の最後の章「妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八」に、「我慢・邪慢・増上慢」という言葉で登場いたします。「我慢」とは、我意に執着して驕る心から離れられない慢心、「邪慢」とは、悪い行いをしても正しいことをしたと思う慢心、「増上慢」とは、悟ってもいないのに悟ったと言い張る慢心のことを指します。

海徳寺の住職に就任してから、もうすぐで四年の歳月が経過いたします。この間、自分なりに色々と考えてあれこれ行ってまいりました。どうしたらお寺に足を運んでくれる人が増えるのか、仏事を行う際にどうしたら安心していただけるのか、そのような思いを少しずつ形にしてまいりました。もちろん短期的な視点ではなく、十年後、二十年後という将来を見据えた上でのことです。

しかし、とある方のご指摘により、その思いが、時には我慢や邪慢にも映ることを知りました。自身では十分に伝えていたという慢心が、その根本原因にあります。そのような時に目にした御遺文が、上記「聖人御難事」です。

お寺に対して意見を言うことは、とても勇気がいることだと思います。しかし、皆様からの意見は、海徳寺を良くする後の薬にもなりえるのです。「我慢」という仏教用語の本来的な意味を知ることにより、それとは真逆の姿である、自我偈の「質直意柔軟」の経文を忘れてはいけないと痛感いたしました。

(海徳寺住職・加藤智章)

平成30年5月 海徳寺 寺報