平成30年6月 海徳寺 寺報

懺悔は信仰の根本

宗教の根幹は自らを顧みることです。その中で善い行いはいつまでも覚えているものですが、日々犯した罪は果たしてどこまで覚えているでしょうか。知らず知らずのうちに誰かを傷つけているかもしれません。

そんな私たちに対し法華経の信仰は懺悔に始まり懺悔に終わる教えです。その懺悔の中に自らの罪の重さが自覚されてくるのです。

聖人の教えの根本は懺悔行です。懺悔の唱題(お題目)を積み重ねる中にお釈迦さまに生かされている自己に気付くのです。その時、懺悔の唱題は報恩の唱題ともなってくるのです。

出典:日蓮宗新聞社発行『今月の聖語』

このところテレビをつければ必ずといっていいほど日本大学のアメリカンフットボールの問題が放送されています。悪質なタックルをした学生がなぜそのような行動を起こしたのか、その問題の背後にある様々な要因が取り沙汰されております。

タックルをした学生本人の会見と、その後に行われた監督・コーチの会見、両方の会見を比較すれば、どちらが本当のことを言っているのか、自ずと明らかなような気がいたします。なぜならば、双方の会見で大きく異なる点は、自身の行動に対して懺悔の気持ちがあるか否かがはっきりと見てとれるからです。

実際に悪質なタックルをしてしまった学生の行動は決して許されるものではありません。しかし、自身の起こした行動を深く反省した上で臨んだ会見には、懺悔の気持ちが十分に伝わってくるものであり、むしろ彼も被害者ではないか、そのように思っている方も多いのではないでしょうか。

今回のアメリカンフットボールの問題を踏まえ、懺悔することの大切さを改めて感じました。毎月の祈願祭で読む「懺悔文」には、自身の行動を顧みる言葉が込められております。是非とも祈願祭に参加していただき、日々の行動を顧みてはいかがでしょうか。

(海徳寺住職・加藤智章)

平成30年6月 海徳寺 寺報