令和3年12月 海徳寺 寺報

道の遠きに志ざしのあらわるるにや

初一念

本書は女性信徒の日妙尼に与えられたお手紙で乙御前はその一人娘の名前です。

日蓮聖人が佐渡へ流罪となられた時、幼い娘を連れて母子2人で鎌倉から命懸けで聖人の下を訪ねました。その志を「日本第一の法華経の行者の女人なり」と称され「日妙聖人」の名を授けました。

本書には玄奘三蔵、伝教大師等の艱難求道の旅を述べつつ、母子の遠き佐渡への旅にこそ、その信仰の志の強さが窺われると賞賛されています。

出典:日蓮宗新聞社発行『今月の聖語』

十月十三日に七面山敬慎院へとお参りに行ってきました。ここ数年、海徳寺にお祀りしている七面様にお経をあげていただくために登詣を続けてきましたが、本年は別の目的がありました。それは、祖父が書いた字が七面山に残されているかを確認する登詣でもありました。

昨年末に実家にて古い書物が出てきました。それは祖父が「筆陣録」と題して、昭和六年から自身が書いた書の作品を記録として残したものでした。数多くの書のうち、海徳寺所蔵の作品も記されており、いくつかは現存しております。そんな記録を見ている時に気がついたのが、昭和三十八年八月二十四日の記録です。

「昭和三十八年八月二十四日 額 肝心坊(ケヤキ板に彫刻) 巾一尺三寸 長さ三尺三寸 山梨県身延七面山十三丁目 肝心坊 井出一郎」

祖父は身延山久遠寺にて長年奉職しており、数々の書が今でも身延には沢山残されています。これまでに七面山を登る時にも祖父の字がないかどうか注意して登っておりましたが、肝心坊にあることは全く気がついておりませんでした。

いざ肝心坊へ行ってみると、確かにお堂の正面に記録通りの大きさの額が掲げられていました。残念ながら祖父の書道の号「雲洞」の字がかすれてはいましたが、間違いなく祖父の字であることが確認できました。

折しもその日は日蓮聖人の御命日。山頂までの五十丁の道のりを少しずつ歩きながら、信仰を受け継いできた先師先哲に想いを馳せました。

海徳寺住職 加藤智章

令和3年12月 海徳寺 寺報

令和3年12月海徳寺寺報
令和3年12月海徳寺寺報