令和6年10月 海徳寺 寺報

彼岸会

この聖語は、日蓮聖人が弟子日永にかわって筆をとり、その父に提出した弁明書の一節です。
まず、日永が念仏を捨てて法華経を信ずるにいたった経緯を述べ、お題目を唱えることが真実の報恩であると示されます。

信仰が異なるということは、浄土が異なることです。しかしお盆には、死者も生者も同じく実家に帰ってきます。
民族の大移動とも表現されますが、死者と生者が同時に一つの場所に集う姿に、娑婆世界こそが釈迦仏の本土=浄土であるという真実が現されているように感じます。
この娑婆世界は、忍土であり、耐え難い苦難だらけです。しかし聖人は、この娑婆世界こそが本土=浄土であると示されたのです。

 
法華経では、如来寿量品に「大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏である」と説かれます。私達は、この世、この土でしか、普通の生活はできません。
だから、どんな苦難があろうとも、どんな状況だろうと、この世この土で、生きていかなければならないのです。
その雄雄しき営みこそが本土=浄土への入口であり、その真実の姿に導くのが、法華経・お題目の信心なのです。

出典:日蓮宗ポータルサイト『今月の聖語』 2011年8月号

暑さ寒さも彼岸まで。昔の人の言葉は正しいなと感じるのは、この原稿を書いているのは、海徳寺に於いて秋彼岸の法要を行った次の日の九月二十三日です。朝外に出ますと風が冷たいと感じました。やっと涼しくなるのかな、と思った時この言葉を思い出しました。私も習志野津田沼に来て五ヶ月が経ち暑いなあっと思った夏も寒さに向かうのかと思った瞬間でした。

我々は生きていれば様々な体験をして死ぬまでの間に成長を続けていきます。辛いことやキツい事の方が多いのかな、とも感じます。生まれてきて生きていく中で喜びや悲しみを感じるのは生きている証拠でこの世に存在する証だと思います。当たり前のようなことですが現実的にはそうなのす。

自分一人が存在する為には多くの先祖の存在がありますし、自分が生きていくには関わりのある多くにひとがいて、その一人一人にも多くの先祖がおります。

自分の周りの人間が悲しいと自分も悲しいのではないでしょうか。自分の周りの人間がうれしいと自分もうれしいのではないでしょうか。

というように、自分一人だけではなく自分に影響のある周りの人間にも自分にも、お互いに影響しあっているといえます。

そのようなことを考えますとお墓に眠るご先祖様も自分たちに影響しあっている、同じことが言えるのではないでしょうか。

このように、現実と非現実と自分のルーツとを様々想いを巡らせて向き合うのもお彼岸の過ごし方なのではと思います。春と秋の彼岸は暦の上で、又宇宙の天体の上でも切り替わの重要な時期です。我々は時間と空間とに配されていますのでたまには何かの拍子に何かを考えるというのは忙しい我々の現代社会で過ごす必要な時間なのではと思います。

海徳寺山務員:吉田安孝

令和6年10月 海徳寺 寺報