夢か幻か・・・
人は生まれて死するならいとは
智者も愚者も上下一同に
知りて候えば
始めてなげくべし
をどろくべしとわをぼえぬよし
我も存し、人にもをしへ候へども
時にあたりてか
ゆめかまぼろしか
いまだわきまえがたく候
日蓮聖人御遺文 『上野殿御家尼御前御書』
(現代語訳)
人間がこの世に生を受けて、また必ず死ぬものであるとは、智慧ある人もそうでない人も、誰もが同じく知っている。その為、誰かが亡くなったと知っても、特に驚くべきことではないと、自分にも言い聞かせ、他の人にも教えてきました。しかし、頭ではそうであるとは思っても、大事な方が亡くなったことが、時には夢なのか幻を見ているのか、未だに認めることができないことがあります。
つい先日のことです。亡き母親が夢に登場いたしました。普段夢を見ること自体ほとんど無いのですが、母親が亡くなってから一年半経って、初めて母親の夢を見ました。生前と同様に慌ただしく寺の中を移動し、勢い良く扉を閉めたところで夢から覚め、今のは夢だったことに気が付きました。
その夢を見て、かつて檀家さんから次のような相談をされたことを思い出しました。主人が亡くなって数年経つけれど、自分は主人の夢を見ることが全くない。それなのに、主人の友人は、頻繁に主人が夢に登場し、その度にお線香を手向けに来てくれるのだと。主人の夢を見ない私は冷たいのでしょうか?という相談でした。
その時にどのように返答したのかは定かではありませんが、夢であっても母親と会えたことに少し嬉しい気持ちとなりました。葬儀で導師を務める時には、上記日蓮聖人の言葉を引用しご回向しております。日蓮聖人であっても人の死というものを受け入れることが難しい、そのような言葉であります。生あるものは必ず死すということは、当然のことではあります。しかし、大切な方の思い出は決して無くならず、夢であれば再会することもできます。母親が夢に登場したことをきっかけに、次はいつ、どんな場面で出逢えるのか、夢を見ることが楽しみになってきました。
(海徳寺住職・加藤智章)