平成29年12月 海徳寺 寺報

地獄と仏とは我等が五尺の身の内に候

地獄も仏も心の内

自分の心を覗いた時、そこに地獄(悪しき心)が存在していたことに気付くのが信仰の原点ではないでしょうか。

しかし、自分の悪を認めることは人にとってたやすいことではありません。

それに気付いたらば、日々、仏の前に額ずき己を謙虚に省みることです。

その時、初めて仏の大いなる懐に抱かれ、生かされていた自分を発見することができるのです。

それが信仰の喜びというものかも知れません。

出典:日蓮宗新聞社発行『今月の聖語』

携帯電話が普及し、いつ、どこでも電話が繋がるようになりました。かつて固定電話しかなかった時代には、連絡を取りたいけれども不在で連絡がつかないことも多くありました。また、今では相手の電話番号が表示されます。電話に出ることが出来なくても、表示された番号を見て折り返し電話することも出来ます。そのような技術の進歩は、生活をより便利なものとし、スムーズな連絡を可能にいたしました。

お寺という性格上、深夜であっても檀家さんから電話が鳴ることがあります。そういった時間帯の電話は訃報であることが多く、先日は深夜三時に高校の同級生から電話がありました。母親が亡くなったのだが、この後どうしてよいのかわからないという相談でした。そういった状況の時に、直ぐに連絡が取れる電話はとても便利であると実感いたします。

しかしながら、最近困った問題も生じています。それは、営業の電話が一日に何件も入ることです。慌てて電話に出て、それが営業の電話であることがわかると、要件を聞く前にすぐに電話を切ってしまいます。そんな営業電話に腹を立てている自分を省みた時に、自身の心の内に悪しき心が存在することに気が付きます。先方もノルマ達成の為に頑張っているのだからと思える境地が仏の心。そのような心を持つには、まだまだ修行が足りません。師走を迎え、そのような営業電話が少ないことを切に願っています。

海徳寺住職 加藤智章

平成29年12月 海徳寺 寺報