終活について思うこと
先月十七日に海徳寺にて施餓鬼会を行いました。
法要に先立ち、秋田県妙倉寺副住職山田恵隆上人に法話をお願いいたしました。
山田上人とは互いの祖父の代からのお付き合いで、そのご縁を頂戴し、祖母が秋田から千葉へと嫁ぎました。私の祖母が秋田訛りであったことは幼少の時に何となく気がついていましたが、そのご縁を知ったのは、祖母が亡くなってから十年以上経過してからのこと。今月がその祖母の祥月命日です。孫の代になってもそのご縁が脈々と継続していることをきっと喜んでくれているものと思います。
さて、山田上人からの法話に、『終活』についてのお話がございました。秋田では、『結婚式の仲人を依頼されることと、葬儀の喪主を務めることでようやく一人前として認められる』という考えがあることをご紹介されました。そして、テレビやマスコミで『終活』という言葉が脚光を浴びている昨今、『終活』があまりにも行き過ぎの面があり、全てを自分達で整理しすぎる傾向にあることを危惧されておりました。
確かに、もしものことがあった時に、お葬式、お墓、相続等で残された家族に迷惑をかけないようにという心情は、親心として首肯できます。しかし、親の死という現実に直面し、残された家族が奔走するからこそ、今まで気がついていなかったことに気がつくことがあるのではないでしょうか?
私自身も先代住職、さらには母親の突然の死に直面し、何をどうしていいかわかりませんでした。しかしながら、わからないからこそ色々と考え、多くの方に相談に乗ってもらいながら、必死で葬儀の準備を行いました。そして、今となれば、葬儀を通じて、死という避けては通れない現実を直視するようになり、人間的に成長することができたと確信しております。
日蓮聖人が『臨終の事を習うて後に他事を習うべし』というお言葉を遺されてから七百数十年。現在であっても、実に含蓄に富んだお言葉です。
(海徳寺住職・加藤智章)