仏を真似る
お彼岸は、私たちの迷いをおさめ、善き心と行いを積み重ねることを勧める期間です。悟りと迷いの日々の中、人を救いたいというお釈迦さまのお気持ちにどれだけ近づき、同じような行いができるでしょうか…。
徳川光圀公は、巡行の折に、親を背負って行列を見せた孝行息子に褒美を取らせました。次の時、それを真似した悪童にも褒美を与えました。納得のいかない家臣に一言。「悪行を真似れば悪人となり、善行を真似するなら善人となろう。善きことを真似するのは、大いにけっこう」と、家臣を諭しました。
手を合わせるお釈迦さまのお姿は、すべての人やものを敬う尊いお姿です。私たちの生き方のお手本となります。人間の善き心と善き行いは、周りの人を幸せに導きます。まずは手と手を合わせる仏さまのお姿の真似をしてみることから始めてみましょう。
出典:日蓮宗ポータルサイト『今月の聖語』 2022年9月号
私が初めて僧侶の修行に行ったのは小学五年生の頃です。父親を師匠として清澄寺にて度牒いたしました。
海徳寺の行事に顔を出すようになったのもその頃からです。当時の住職は加藤海正上人。海徳寺の近くには駄菓子屋があり、ミクという白い小さな犬がいました。親戚のおじいちゃんが住職をしているお寺だな程度の認識でした。行事の時には檀家さん達が猛暑の中台所で天ぷらをあげ、お経となればとてつもない速さの団扇太鼓。行事後の二階客殿での宴会も記憶に残っています。
その当時、私はまだお経も少ししか読めず、法要の所作なども全く知りません。本来であれば僧侶の席に座って行事に出られる立場ではありません。しかし、海正上人は、「周りのお坊さんのやっていることをこっそり見ながら、それを真似すればよいから」と一言。声明(しょうみょう)と呼ばれる抑揚がついた歌などを覚えたのもその頃です。気がつけば耳から入ってきたものが自然と口から出るようになっていました。
ところで、先日流暢な関西弁を話す僧侶の方とお会いしました。てっきり関西出身かと思っていたら、実は出身は関東。出会った師匠が関西の人で、その師匠を真似ていたら、いつの間にか関西弁になっていたそうです。「学ぶ」の語源に「まねぶ」があり、「真似る」ことから色々と「学ぶ」という話を思い出しました。
今年も歴代の住職を真似て、海徳寺に祀っている七面様と尊神様(鬼子母神)を背負い山梨の七面山に登りました。その道中に出会った御遺文が今月の聖語です。自身の僧侶としてのスタートが、海徳寺にて「真似ぶ」ことから始めまったことを今年の七面山登詣にて思い出しました。
海徳寺住職:加藤智章