令和7年6月 海徳寺 寺報

凡夫成仏の不思議

法華経の行者日蓮聖人は、法華経絶対を択一された法華経至上主義者であられる。その絶対の根拠は究極ただ一つ。法華経が、仏教の唯一で最大の目的である「凡夫を仏に成し給う」大法であるからであった。かかる法華経の秘妙さ絶妙さを日蓮聖人は「法華経の不思議」「法華経の御力」と言われ讃嘆されたのである。故に、法華経の文字、その全文、全文字の一字一字は、そのまま挙って仏のご本意・ご本懐すなわち衆生救済をあらわし告げるものである。つまりは、仏そのものであられる。要するに、肉眼・凡眼に見る黒い印字は、智慧の眼・慈しみの眼である仏眼には、変じてみ仏の本体・本質と映るのである。
その一大変化変質、つまり凡夫成仏の大転換、転凡(てんぼん)成聖(じょうしょう)・転凡(てんぼん)入聖(にっしょう)の不思議さを日蓮聖人は言葉に尽くして説き明かされるのである。「法華経の不思議もまた是の如し。凡夫を仏に成し給う。蕪(かぶら)は鶉(うずら)となり、山(やま)の芋(いも)は鰻(うなぎ)となる。世間の不思議以(もっ)て是(かく)の如し。何(いか)に況(いわん)や法華経の御力をや」と。蕪は野菜、鶉は鳥、また山芋と鰻。全然種族を異にするが形状は似る。だから実体はちがうが形が似ていれば誤って見られやすく、あり得ぬことも起こるように、そのようにものごとはよく変化するものであると。一字一仏、変じ転じて凡夫を仏となすことの譬話である。

出典:日蓮宗ポータルサイト『今月の聖語』2011年3月号

皆さんこんにちは。気が付けば令和七年もあっという間に半分が過ぎてしまいました。 
新年を迎え寒いのが暖かくなり、暖かいのが暑くなり、やがてまた、寒くなる。自然界は変わらず同じサイクルを繰り返しております。われわれ人間はどうでしょうか?

我々も人の一生で言えば、生老病死とサイクルしています。その中でもがきながら、時には「喜び」、時には「苦しみ」、「悲しみ」、と言った感情が芽生えながら暮らしていきます。良い事ばかりあれば良いのですが、そうはいきません。でも、考えを変えれば、苦しいとか悲しいとかという事があるので喜びも一層増すのではないでしょうか。「苦しい」とか「悲しい」とかという時には努力が必要ですし、喜びが大きいときは努力がとても大きいのかなとも思います。人間は努力しても必ず報われるとは限りません。しかしながら、それはウマくいかない行かないときは必ず何かの原因があるはずです。解りやすい原因、解り難い原因様々あると思います。自分自身に足りないものがあるからこそウマくいかないのだと思うのです。

それをどうやって探すかというのは各々の課題ではないでしょうか。
最近もそういった課題に立ち向かう若者の話を聞いて色々アドバイスさせていただきました。彼の場合は大きく見れば心に問題がありすぐには解決しなくとも努力の道のりを諦めなければ良くなると確信いたしまいた。一歩一歩自分自身を見つめながら歩き続けることこそ大切なんだと自分自身にも気が付かされる思いでした。皆さんもずっと遠いご先祖や縁ある人の事を思いながら心に南無妙法蓮華経を保ちながら過ごされてはいかがでしょうか。必ず答えが見つかるはずです。もし見つからないときはご一緒に探してみましょう。

九 拝

(海徳寺山務員・吉田安孝)