平成28年6月 海徳寺 寺報

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恩を知って恩に報いる

夫れ老狐は塚をあとにせず。白亀は毛宝が恩をほうず。畜生すらかくのごとし。いわうや人倫をや。日蓮聖人御遺文『報恩抄』

(訳)そもそも狐は自分の生まれて住んでいた塚を忘れず、死ぬ時首を塚の方へ向けるという。中国では古代晋の時代に、毛宝という人が、白い亀を漁師から買いとって揚子江に逃がしてやったが、後に毛宝が戦争に負けて揚子江に投身自殺しようとした時に、白亀が現れて毛宝を助けたと伝えられている。畜生ですらこのように恩を知っている。いわんや人間ならば恩を忘れてはならない。

貴啓上人最後の身延大会

この『報恩抄』という御遺文は、日蓮聖人が師匠・道善房がお亡くなりになったという訃報に接し、昔お世話になったことに対する感謝のお気持ちを綴ったお言葉です。

平成26年6月10日に、海徳寺先代住職加藤貴啓(報恩院日教)上人が遷化されました。それから2年の歳月が流れ、3回忌を迎えます。多くの檀信徒の方々から「前の住職さんはとても優しく、親身なって心配してくれて、本当にお世話になった。」という言葉を何度もお聞きいたしました。平成6年11月に、貴啓上人は海徳寺に入寺し、以来この20年間に残した貴啓上人の功績は、皆様のこの知恩の言葉に集約されております。

3回忌法要を迎えるにあたり、貴啓上人の御生涯をスライドとしてご紹介しようと考え、準備を進めてまいりました。貴啓上人は、昭和23年5月28日、父・加藤錬明、母・春子の次男として松戸本覚寺において誕生し、母・春子は、その1年後の昭和24年7月23日に40歳にて急逝いたしました。生まれた頃の写真をご紹介しようと思い、多くの写真を探してはみたものの、実母と写った写真は一枚も見つかりませんでした。唯一といっていい写真は、実母の葬儀の際に、兄弟弟子に抱かれた赤子の貴啓上人が、遺影とともに写っている写真でした。

貴啓上人の66年間の御生涯において、この実母の急逝という苦しみ(=仏教思想での思うままにならないという意)が及ぼした影響というものは計り知れないものがあるものと思われます。しかし、このような苦もあれば、教師として多くの学生を育て、また父として3人の子供に恵まれ、さらに祖父として多くの孫に囲まれる等、幸せなことも数多くあったはずです。加えて、晩年の20年間は、僧侶として多くの檀信徒の方々を教化いたしました。海徳寺における皆様との出合いは、上人にとってかけがえのないものとなったはずです。

この御生涯を鑑みた時に、ふと中島みゆきの「糸」という歌の歌詞が頭によぎりました。

縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に出逢えることを 人は仕合せと呼びます

という歌詞でこの歌は締めくくられます。
この最後の歌詞は、「幸せ」という日常使う漢字表記ではなく、「仕合せ」となっております。現在では、「幸せ」という言葉は、良い時のことのみを指す言葉であると思われます。

しかし、本来の「仕合せ」というのは、「良い仕合せ」、「悪い仕合せ」というように、起きたことや出逢ったことに対して、良い意味でも悪い意味でも、どちらにも使っていました。ですが、その後良い意味だけに限定して使われるようになり、現在の「幸せ」との使い方へと変化していったようです。

貴啓上人の遷化というあまりにも突然の出来事は、寺族・檀信徒・友人の方々にとって深い悲しみであり、2年経過した現在であってもそう簡単に癒えるものではありません。しかし、多くの方々が悲しんでいるというその背景には、貴啓上人と話したことや過ごした時間がとても良かったからという出逢いがあったからに他なりません。そのような皆様との出合いは、振り返ってみれば、貴啓上人にとって間違えなく「良い仕合せ」であり、現在でいうところの「幸せ」な出来事・人生であったはずです。

人生には、「良い仕合せ」だけでなく「悪い仕合せ」も数多くあると思います。ですが、「悪い仕合せ」があった場合でも出来る限り前向きに考え、その背後にある「良い仕合せ」の部分を見いだせるようにしたいと考えております。3回忌法要を迎え、貴啓上人が残された功績の大きさを実感するとともに、その御恩に対して少しでも報いていきたい所存です。

(海徳寺住職・加藤智章)

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