人っていうのは二度死ぬんだよ
誰もが父母があってこの世に生まれてきます。「産んでくれと頼んだ覚えはない!」と反発しても、この事実は変わりません。誰もが自分の体は親からいただいた大事な体なのです。
そんなあなたが、もし今、悩みや苦しみ、生き辛さを感じていたら、それはあなたのお父さんやお母さんも、かつて経験してきたことかもしれません。時には素直な心で父母に相談してみましょう。自分のことのように考えてくれ、良い答えを出してくれるかもしれません。
父母の父母、そのまた父母、ご先祖さまへと思いをはせてみましょう。みんな、あなたと同じように悩み苦しみ一生懸命生きてこられたと思います。今、〝私〟がいるのは父母(先祖)と〝身と影の如く一体〟だからです。たくさんの縁を感じながら「今」と「私」を幸せに生きましょう。
出典:日蓮宗ポータルサイト『今月の聖語』 2024年8月号
永六輔さんの言葉に「人っていうのは二度死ぬんだよ」という言葉があります。最初の死は、心臓が止まり、医学的に死亡診断書を書かれた時。しかし、故人を覚えている人がいる限り、その人の心の中で故人は生き続けている。そして二度目の死は、その故人のことを覚えている人が誰もいなくなった時だと。
先日、海徳寺の物置にあった古いタンスの引き出しを開けたところ、これまで見たこともない二つの古い資料を見つけました。
一つは、「平成二年四月一日付の聖徒タイムズ」です。かなり茶色に変色した古い新聞の記事に目を通すと、海正上人、輝子おばさん、師父・雅章上人、先代・貴啓上人等の名前がありました。また、海徳寺の檀家さんの顔写真入りの記事も多数掲載されていました。写真に写っている方々のほとんどがお亡くなりになってしまいましたが、とても懐かしい気持ちとなりました。
もう一つは、「大正二年 御首題 五月」と書かれた御首題帳です。昨今御首題集めがブームになっており、海徳寺にも御首題を希望される方が参拝されます。しかし、信仰というよりもコレクションという側面が強い気がいたします。一七〇頁にわたる御首題帳を開いてみると、全国各地の日蓮宗寺院の御首題がたくさん書かれていました。特に身延山でのものが多く、古くは大正二年五月十四日の七面山敬慎院のものでした。
この御首題帳が誰のものかは不明ですが、年代から推測して、海徳寺の初代または二代目住職のものではないかなと思われます。先月、当該御首題帳とともに七面山にお参りしたところ、七面山の僧侶の方々もこれだけ古い御首題帳は見たこともないと驚かれていました。
たまたま見つけた二つの古い資料と、頭によぎった永六輔さんの「人っていうのは二度死ぬんだよ」という言葉。「私達が海徳寺にいたことを忘れるなよ!」という先人からのメッセージとして、しかと受け止めました。
海徳寺住職:加藤智章